かくりよ書房夜明け分館

服飾、文芸ほか雑記

絵の練習をしていたはなし…『恋の筆触分割』について

 2015年の春くらいから折に触れて絵の練習をしています。

 高校生の頃は美術部にいたのだけれど画力がある方ではありませんでした。自分の中にあるよくわからない世界のようなものを描くのが好きだったはずなのだけれど、展覧会に出した絵を顔も名前も知らないお客さんに無邪気にけなされるという経験を複数回してしまい、「あ、向いてないんだな」と思ったのが大きかった。褒められるような絵を描けないなら絵は描いちゃいけないんだな、としみじみ思いながら、スケッチブックをまとめて処分したり画材を捨てたりして進学。大学に入ってからはツイッターのアイコンを適当に落書きするくらいで、きちんと絵を描くことはほぼほぼしませんでした。

 

 大学3年生の冬、下宿に引きこもっているときに、あるゲームで遊びました。

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 前の年の秋、多摩美術大学の学園祭で買った乙女ゲーム、女性向けの恋愛シミュレーションです。ずっと寝かせておいたのですが暇だったのもありここでぺろっと手を出しました。

 現代日本美大を目指し、浪人しつつも自分のやりたいことがよく分からなくなっていた主人公が、異世界の美術学校に迷い込む。
 美しいけれどどこか閉鎖的な学校で、なぜか少年少女の姿になっている印象派の画家たちと出会った彼女は、学内の展覧会での入選を目指します。
 乙女ゲームにはなかなかない暖かい絵柄や、おそらく美大に在籍する方が描いたからここまでリアルになったのだろう、大好きな世界を描きたいように描くことをめざし、周囲と交流する中で切磋琢磨する登場人物たちの丁寧な心理描写、史実をもとにしたストーリー展開がものすごく面白くて、夢中になって読み進めました。長編の物語を読むのが辛かったころでしたが、不思議と遊んでいて疲れるということがありませんでした。

 

 作中にはポスト印象派の画家、フィンセント・ファン・ゴッホとポール・ゴーギャンのふたりを主軸にお話が展開していくルートがあります。最初に登場したから、と真っ先にふたりのルートを選んで遊んでいた私はそこで、おそらく3年ぶりくらいにあたらしい「推し」に遭遇しました。
 テオドルス・ファン・ゴッホ。言わずと知れたフィンセント・ファン・ゴッホの弟であり、支援者です。彼がいなければゴッホの絵は世に出ていないので、登場しない方が不自然ですね。
 私は、なぜかよりによって攻略対象でもなんでもなかった謎の美少年テオドルスにドハマりしました。彼に関するあれこれはだいぶ衝撃的なので未プレイの方に取っておきたい、よってめちゃめちゃぼかした書き方をすることをお許しいただきたいのですが、報われないめちゃめちゃ大きな感情の動きっていいな~~~~~~! と、賃貸の部屋でできるだけ静かに床を転がったことを覚えています。
 神への愛が生涯思ったような形で報われることのなかったフィンセント、兄への思いが報われたかどうか怪しいテオドルス、そんなところまで兄弟で相似形にならなくてもいいのに……本編のハッピーエンドもバッドエンド(フィンセントについてはバッドエンドが二種類存在し、片方は実質テオドルスエンドだと思います)も大変重厚で震えながら読みました。

 そして、フィンセントルートをプレイし終えた私はそのままの勢いで近場の東急ハンズに出向き、スケッチブックと4Bの鉛筆と練り消しゴムを買いました。

 腹の底から、テオドルスを描きたいという声が轟いたからです。

 

 物語は史実とシンクロしており、ゲームに登場する印象派の画家たちは、実際に彼らが登場したときと同じく絵に対する理解を得ることができません。スキャンダラスな題材、その一瞬の光を切り取るための画法、写実からかけ離れた描写、そういったものに浴びせられるのは痛烈な批判でした。でも、彼らは諦めません。自分たちが美しいと思ったもの、残したいと思ったもの、それが自らの目にどう見えたのか、それがどう自分たちの心まで動かしたのか、自分の心身を削り取ってつくった絵の具をキャンバスに叩きつけて静かに叫ぶのです。

 巧拙は関係ない、ただ、描きたいものを描きたいように描けるかどうかがすべてだ。

 これが私の愛した世界です、どうですか。

 

 私も彼らのように、テオを描きたくなりました。自分の描きたいように、彼の寂しいところとか悲しいところとか感情の根が激しいところとか、そういったものを描けるかぎり描きたくなりました。誰かに褒められるとか貶されるとかもどうでもよかった。ただ、私に見えたテオドルスを描きたくて、それだけでした。


 しかし当時の私は人間といえばバストアップしか描けない、腕も足もどう胴体につながってるのかまったく謎、頑張って全身を描いても複雑骨折みたいな有様でした。
 これでは描きたい推しを描けない。練習しよう。

hitokaku index

 人物画と言えばこのサイトということで、1日に1セクションずつゆっくりと進めていきました。はじめは丸を描く練習から、次第次第に正面の顔、様々なアングルの顔、全身、と描きすすめられるようになり、数日で私ははじめて推しキャラの全身を自分で描くことができました。
 きちんと曲げたい角度に手足をまげて、棒立ちでも無表情でもない絵。
 こらえようもないくらい嬉しかったです。推しが自分の手で描けたことも、練習すればできるようになることがあるというのも。
 絵の練習と並行してゲームはすすみ、描けるようになったキャラクターも増えていきました。ちょうどそのころ印象派の展覧会が連続して開かれていたこともあり、私は美術館を死ぬほど廻って史実の彼らの絵を見に行くことができました。
 その折々に彼らが見て、心を動かしたものが、彼らの見たそのままに描かれている。美術館に行くということは、誰かの目を借りて世界を見るような経験をすることなのだということをそこで初めて知りました。絵をどう楽しんでいいのか、それまでの自分はあまりよくわかっていなかったのだということも。
 ゴッホの描いた教会の絵を見ながら泣きそうになりました。絵を見て泣きそうになったのも初めてでした。

 ゲームをしだす少し前、自分にはなんにもできないのだと思って落ち込んでいて、人間がめっきり怖くなってあまり外にも出なくなっていたのだけれど、練習すればすくなくとも絵は描けるようになったし、美術館に行くためなら人込みを歩けるようになったし、キャプションを観なくても印象派の絵であれば、どの絵を誰が描いたか見分けることができるようになっていました。絵を見て心が動くということも、それは疲れるけど物凄く楽しいことだというのも知ることができました。
 楽しく数をこなせばできるようになることがある、と教えてくれた恋の筆触分割にはめちゃめちゃ恩があります。

 今日、ひさしぶりに絵を描いていて思い出したので。